タイトル通り、『君たちはどう生きるか』の解釈と感想を書きたいと思います。作品を観た方前提のネタバレ話です。
まず、多くの方が指摘している通り、私もこの作品は宮「﨑」監督の遺言書と受け止めました。自分がこの現実世界を見て、何を感じ、何を好きになり、何に影響を受け、それをどう作品に反映させたのか、それを(今まで自分の作品で描いてきた世界観を)より個人的な視点で描き直し、最後は観客に問いかける、「君ならどう生きるか」と。言い換えれば、「私はこのような積み木を作ったが、君はこの世界をどのように見ているのか?そしてその世界の見方でどんな風に積み木を積み上げるのか?」という問いかけでありました。
ただし、主人公の眞人も大叔父も宮﨑監督を別の側面から描いた本人そのものなので、遺言作品を作った筋として、他者に「君はどう生きるのか?」と問いかける側の責任として、眞人の口を通して自分の答えも提示する、「穏やかな世界は望まない。それは世界や人間のあるべき姿ではない」と。(この答えはコミック版ナウシカの終盤と共通していましたね。「苦しみや汚れが人間を美しい生き物に変える」)
本当の願いは大叔父の台詞そのまま、「誰かに自分の積み木を継いで欲しい」。これは私たち観客へのメッセージでもありますが、より具体的にはアニメ業界や息子の吾朗さんへのメッセージという意味合いが強いのでしょう。一方で、第三番目の自分であるアオサギの男に「でも、自分の積み木が忘れ去られたとしても仕方ない。世の中とはそういうものだから、それで良いんだ」と言わせる諦念にも近い現実肯定。
事前に情報を公開しなかったことにより、作品の意図に観客がだんだんと気づく仕掛けになっており、私にはこれが完全に刺さりました。スタッフもできるだけ今までの功労者を集めたものになっていたので、事前に情報を公開しなかったのも頷ける結果です。
冒険活劇的なアクションがかなり少なかったのも、非常に示唆的な意味合いを持っていたと思います。監督にとっては、分かりやすく派手なアクションは自作で優先して見せたいものではなかったのかな、と。そして最後まで外さなかった力強い女性への願望と、それでも病弱だった母を肯定するんだという決意。「生きるための食」が美味しそうなのも健在。
作品内のメタファーはかなり平易なものになっていたと思います。というより、大事なポイントになると台詞で逐一説明してくれていたのですから、その部分はメタファーですら無かった。ゆえにジブリ作品に対する知識も特に必要ではなかったはずです。
説明のない暗喩であっても分かりやすく、大叔父は「13の作品を作った」と言ったり。千と千尋で描きたかった「銀河鉄道の夜への回答」もあったと思います(大叔父はブルカニロ博士でもあったのだと思っているのですが、どうでしょうか)。元ネタを包み隠さないのもいつも通りで、ベックリンの「死の島」に関してはほとんどそのままでしたね。
ベックリン「死の島」
大叔父が入り込んでいた生と死が入り交じる夢のような世界、言い換えれば「創造力の源泉を具現化した世界」は「空から降ってきたモノ=後に塔となるモノ」に入ることによって行けるようになっていましたが、大叔父が「創造力の源泉世界」にアクセスできた理由が「それが空から降ってきたから=偶然 or 運命」というのは、なんだか、本当にアケスケのない正直な監督の回答だと思いました。
ただし、これらの要素に気づかなかったとしても、作品の意図は十分に理解可能なものになっていたと思います。大事な部分は台詞で説明していたので。そしておそらく相当数のオマージュが込められていると推測されますので、個人でその全てを解読するのは相当困難なのではないでしょうか?ですから、作品の大まかな内容さえ理解できればそれで満足という方は、それでも全く問題ないように作られていると思います。
※この作品が「難解」だと感じ、意味が分からなかったという方も、それは「今は」分からないだけだと思います。こういった作品はある意味で「理解するコツ」というものがありますので、そのコツを掴めるように意識しながら色々な創作物や書籍に触れていくと、いつか再び鑑賞した時にはあっさり理解できたりするものだと思います。分かる、分からないはその程度の差ではないでしょうか。ですから、理解できなかったので駄作、などとすぐ結論を出さずに、一旦置いておくのはいかがでしょうか?
作品の内容に戻ります。今作は「集大成」と言った表現もされていますが、空を飛ぶことへの憧れや爽快感はあまり表現されていなかったと感じました。飛行機械も戦闘機の部品のみの登場。鳥人間はいっぱい出てきましたが(笑)、インコやアオサギ、ペリカンが飛んでもその美しさやスピード感は最小限で、必要だからやった、という感じでした。これがなぜなのかは正直まだ確信のない状態です。鳥たちは監督のファン、批判的な人間、周囲にいる人々の象徴なのだと思いますが、であるとするならば、空への憧れが少ない理由も推測はできるのですが、もう少し確信が欲しいので、その時は書き足すかもしれません。
自分の心の中にあるイメージと思いを包み隠さず描き、遺言としてアニメーション化して世に出すなんて、宮﨑監督以外できませんよね。そういう意味では本当に稀有な存在だし、この作品は爽快なエンターテインメントではありませんでしたが、特殊な、「凄い作品」でした。
さて、宮﨑監督はこの後どうするのでしょうね。遺書はもう描いたので、これで映画は本当に最後にするのか、逆に肩の荷が下りたので、まだ作れるのか。遺書を描いたからと言ってそこで何もかもが終わるわけではありませんので、創作活動自体は辞めることはないのでしょうですが、「長編映画」となると、年齢的にも、モチベーション的にも、どうなのかは知る由はありません。作品内ではサヨナラを言っているし、インコは最後には飛んでいったので、これで最後でもおかしくはないのですが、鈴木プロデューサーは「監督は元気です」とも言っています。
※追記:今のところ、以下の作品が大きな元ネタのひとつではないかと噂されています。あらすじの共通部分および宮﨑監督が本の帯を書いていたことからも、大いに可能性があるようです。
※追記2:雑誌SWITCH9月号が発売されましたね。鈴木プロデューサーと池澤夏樹さんの対談によると、アオサギ男のモデルは鈴木プロデューサー、大叔父は高畑監督と、私の解釈とは違ったようです。残念!(笑)ちなみに2023年SWITCH9月号の対談などは『ジブリをめぐる冒険』というタイトルで書籍化しております。