2015-03-02

『おもひでぽろぽろ』主人公のタエ子はなぜ顔に「しわ」ができるのか?


『おもひでぽろぽろ』の主人公、タエ子。彼女は他のジブリ女性キャラにはない大きな特徴があります。

それは、彼女が表情を崩すときに顔に「しわ」ができること。

作品を見ていて、この「しわ」が気になってしまう人も多いようです。かくいう自分も最初はやはり気になってしまいました。表情を崩すと顔にシワができるのはリアルな表現であると言えます。しかしそれでもある疑問がわきます。なぜタエ子の顔には「しわ」ができるのか?

その理由が、高畑勲監督のインタビュー・エッセイなどを一冊に収めた書籍『アニメーション、折にふれて』で詳細に語られていましたので、その部分を抜粋してご紹介したいと思います。

 さて、本題のタエ子の「しわ」についてであるが、これはしわの問題ではない。筋肉の問題である。
 『赤毛のアン』以来、近ちゃん(※近藤喜文さんのこと)と話し合ってきたことのひとつに、人は表情の変化によってまるで別人かと思えるほど顔の感じが変わるという事実がある。
(中略) 
 『火垂るの墓』の冒頭、蛍飛ぶ赤い草むらから節子が立ち上がり、兄(清太)を見出したとき、清太は節子を安心させるべくニッと笑ってみせる。ただ明るいとか、微笑んでいるのでは駄目だ。意識的に筋肉を動かして「ニッと笑ってみせる」のだ。このとき清太の口のわきに「しわ」が生まれる。節子も、とびきり上機嫌だったりベソをかけばむろん筋肉の「しわ」ができる。これらも意識してやったことだった。
 そしてタエ子だってじつは同じなのである。 

 タエ子の「しわ」はいつもあったわけではない。タエ子だって、ふつうの真面目な表情では「しわ」はない。まだ若くてしわなどできないのだ。

 ぼくは「二十七歳タエ子のコンセプト」(「映画『おもひでぽろぽろ』演出ノート」『映画を作りながら考えたこと』所収)でこう書いた。
○タエ子はファニィ・フェイスである。(中略)
・タエ子は常に元気良く、明るく振舞おうとしている。
・男性に可愛い!と思わせる、例のオチョボグチワライもやらない。
○笑顔は、現実適応の最良の道であることを、タエ子は発見したのだ。
・したがって、タエ子の笑顔は完全に無意識であるとは言いきれない。
・笑顔そのものが生きる意志を表している。
・精神の高揚、精神の回復(立ち直り)の両面とも笑いではかろうとする(照れ笑いもだから、それなりの強さがある)。(中略)
○精神が集中すると人の顔は美しくなる。そういうときのタエ子は美人である。(以下略)
以上で分かるとおり、タエ子の笑顔は清太のニッと笑った顔とおなじように、ある意味で意志的なものであり、そういうことを近藤喜文氏とぼくはタエ子の「キャラクター(人格)」として表現したかったのである。
「しわ」はただのしわではなく、十分に達成できたかどうかはともかく、それは筋肉の表現でなければならなかった。
 さらに笑顔によってできるしわやカゲは、頬骨の存在をあきらかにする。

 『おもひでぽろぽろ』は「二十七歳」頃の女性の抱える問題として、少女時代を回想する作品である。見た人が二十七歳の女性だと思って自然に納得してもらえるような感じを出すにはいったいどうすればよいか。

 セルアニメーションでは「幼児・子ども・青年・中年・老年」ぐらいしか描き分けようがないと思われてきた。マチエル(肌)も、明暗による微妙な凹凸も、細かいしわや襞も描けない以上、それは当然だ。
 われわれの顔は、頬骨のせいで正面と斜め前の印象が違う。正面から見たときはなだらかにふっくらしていて頬骨の存在をほとんど感じさせない顔でも、斜めを向くと頬骨が見えてきて、口のわきで頬の輪郭線の微妙な変化を捉えることができれば、年齢感を出すことができるかもしれない。斜め前の固定顔ならばむろん可能だが、いわゆる「顔まわし」をしたとき、印象が変わってしまったり、ぐにゃぐにゃになってしまわないか。「円筒」型の「顔まわし」しかしてこなかった原動画にとって、あまりにもむずかしい仕事を課すことにならないか。
 これがテスト作画を試みた理由だった。そしてそれは本番でも生かされ、また、笑顔の「しわ」と自然に結びついたのだった。

 残念ながら、このタエ子の「しわ」を醜いものと感じて嫌う男たちがいる。映像、とくにファンタジー系のアニメーション映像にみずからの理想を投影して見たい人にとって、タエ子は夢想の対象たりえないことはよく分かる。また、ぼく自身、ロートスコープまたはそれ的なアニメーション映画に描き込まれている「しわ」はうるさいとしか見てこなかった。おそらく近ちゃんもそうだったはずだ。それらは本来近藤喜文氏の垢抜けた美学とは相容れないものである。

 しかし、ぼくたちにとってタエ子の「しわ」は必要な表現だったし、近ちゃんはできる限り繊細にそれを扱った。その意図も無意識のうちに観客に伝わったはずである。事実、タエ子をその「しわ」ごと受け入れてくれた人は多かったし、タエ子を身近に感じて、女性の多くが自分の問題として受け止め、自分についてあれこれ考えるきっかけにしてくれたのは作り手として大変うれしかった。
 それにしてもやはり「しわ」はむずかしい。近ちゃんにとってもぼくにとってもやや心残りだったのは、「しわ」の線を他の線にくらべ、うすく、細めにできないか、あるいは実線ではなく細いカゲで表現できないか、そうすればより自然に見えるのではないか、いや、却ってリアル感が増して作為を感じさせてしまうかもしれない、などと話し合いつつ、結局そのテストもせずに本番に入ってしまったことだった。
 コンピューター時代の現在、このような表現もそのための試行錯誤も、もう少し自由にやってみることができるのではないだろうか。

タエ子の顔の「しわ」には、このような意図と思いが込められていました。(やや長くなりましたが、これでも抜粋した方です)監督自身「むずかしい」と述べているように、「しわ」の表現については少しの心残りがあるようですが、それでもこの『おもひでぽろぽろ』という作品において、しわは必要な表現だったのです。


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