2016/06/20

尊敬と失望。宮崎駿さんの手塚治虫先生への複雑な思い。


日本マンガ界の神、手塚治虫。

彼の与えた影響は計り知れません。そしてそれは当然のごとく、日本アニメ界の神、宮崎駿さんにも影響を与えていました。しかし宮崎さんは手塚先生の影響を受けつつも、そこから卒業しようという思い、アニメーションの仕事に従事してからの失望、などなど、愛憎半ばする思いを持っていたようです。

今回は、書籍『出発点―1979~1996』より、宮崎監督が手塚先生について語っている部分を抜粋してご紹介したいと思います。(初出は『Comic Box』1989年5月号)以下、その部分です。


手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した
(前略)
まずぼくが手塚さんの影響を強くうけたという事実がある。小中学生のころのぼくは、まんがの中では彼の作品が一番好きでした。

(略)

 それから、十八歳を過ぎて自分でまんがを描かなくてはならないと思ったときに、自分に染み込んでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすか、ということが大変な重荷になりました。
 ぼくは全然真似した覚えはないし実際似ていないんだけど、描いたものが手塚さんに似てると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。模写から入ればいいと言う人もいるけどぼくは、それではいけないと思い込んでいた。

(略)

 本当に抜け出せたのは、東映動画に入ってからですね。二十三、四歳です。

(略)

 僕が、いったいどこで手塚さんへの通過儀礼をしたかというと、彼の初期のアニメを何本かみたときです。
 漂流している男のところに滴が一本たれ落ちる「しずく」(一九六五・九)や「人魚」(六四・九)という作品では、それらが持っている安っぽいペシミズムにうんざりした。かつて手塚さんがアトムの初期のころ持っていたペシミズムとは、質的に違うと思ってーー

(略)

これは先輩から聞いた話ですが、「西遊記」の製作に手塚さんが参加していたときに、挿入するエピソードとして、孫悟空の恋人の猿が悟空が帰ってみると死んでいた、という話を主張したという。けれどなぜその猿が死ななくてはならないかという理由は、ないんです。ひと言「そのほうが感動するからだ」と手塚さんが言ったことを伝聞で知ったときに、もうこれで手塚治虫にはお別れができると、はっきり思いました。
 僕の手塚治虫論は、そこまでで終わりです。


まず宮崎さんは手塚先生から受けて影響を偽ることなく告白しています。そして、影響を受けすぎたあまり、そこから意図的に脱しようとしていることも。自分のオリジナリティを獲得するためには、大きすぎる影響はむしろ邪魔ですらあるのですね。

しかし、それもアニメーションの世界へ入ってからは変わるようです。手塚先生のアニメーションへのアプローチ方法、物語の作り方に対し、明確な「失望」が見て取れます。そして、ここから先はネットでもやや有名(?)な部分になり、非常に批判的な言説が続きます。


 そのあと、アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない。虫プロの仕事も、ぼくは好きじゃない。好きじゃないだけでなくおかしいと思います。

(略)

 一時彼が「これからはリミテッドのアニメーションだ。三コマがいい三コマがいい」とさかんに言っていましたが、リミテッドアニメーションは三コマという意味ではないですし、その後、言を翻して「やっぱりフルアニメーションだ」とあちこちで喋るに至って、フルアニメーションの意味を知らずに言っているんだと思ってみていました。同じようにロートスコープをあわてて買いこんだときにも、もうぼくらは失笑しただけです。

(略)

 昭和三十八年に彼は、一本五十万円という安価で日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」を始めました。その前例のおかげで、以来アニメの製作費が常に低いという弊害が生まれました。
 それ自体は不幸なはじまりではあったけれど、日本が経済成長を遂げていく過程でテレビアニメーションはいつか始まる運命にあったと思います。引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけで。
 ただ、あのとき彼がやらなければあと二、三年は遅れたかもしれない。そしたら、ぼくはもう少し腰を据えて昔のやり方の長編アニメーションの現場でやることができたと思うんです。
 それも、今ではどうでもいいことですけれど。


手塚先生の「いい加減」とも取れるアニメーションへの理解と態度を批判し、同時にアニメの製作費の低さのきっかけを手塚先生としています。(その引き金を引いたのが手塚先生であることは“たまたま”であったと述べつつも)


 全体論としての手塚治虫をぼくは“ストーリーまんがを始めて、今日自分たちが仕事をやる上で流れを作った人”としてきちんと評価しているつもりです。だから、公的な場所や文章では「手塚治虫」と彼のことを書いていました。ーーライバルではなく先達ですから。

(略)

 だけどアニメーションに関してはーーこれだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うので言いますがーーこれまで手塚さんが喋ってきたこととか主張してきたことというのは、みんな間違いです。
 なぜそういう不幸なことがおこったかと言えば、手塚さんの初期のまんがをみればわかるように、彼の出発がディズニーだったからだと思います。日本には彼の教師となる人はいなかった。初期のものなどほとんど全くの模写なんです。そこに彼は独自のストーリー性を持ち込んだ。持ち込んだけど、世界そのものはディズニーにものすごく影響されたまま作られた。結局、おじいさんを超えることはできないという劣等感が彼の中にずっと残っていたんだと思います。だから、「ファンタジア」を超えなきゃいけないとか「ピノキオ」を超えなきゃいけないとか、そういう強迫観念からずっと逃れられなかったとしか思えないーーぼくなりに解釈すれば。
 趣味としてみればわかるんです。お金持ちが趣味でやったんだと思えば……。
 亡くなったと聞いて、天皇崩御のときより“昭和”という時代が終わったんだと感じました。
 彼は猛烈に活動力を持っている人だったから、人の三倍位やってきたと思う。六十歳で死んでも百八十歳分生きたんですよ。
 天寿をまっとうされたと思います。


影響と尊敬を認めつつも、やはりアニメーションに対してやったことは「間違い」であり、認めることはできない。そして、なぜ手塚先生はそういう行動をとったのかも理解は出来る、いや、理解したい。そういった感情がない混ぜになった複雑な思いが文章からありありと見て取れますね。

もちろん、これは宮崎監督からの視点。手塚先生がご存命ならば、反論したいこともあるでしょう。しかし、アニメーションに人生をかけた宮崎さんだからこその思い、それは決して外側の人間が容易に口を出すことができるものではないと思います。

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