『火垂るの墓』の原作者である野坂昭如さんには、ネットで有名なエピソードがあります。あらすじはこのような感じです。
野坂昭如さんの娘さんの学校の授業で『火垂るの墓』が国語の問題に出題された。
問題に「この時の作者の心境を答えよ」というものがあったので、娘さんは家に帰ってから父に「その時どんな気持ちだったの?」と訪ねると、野坂さんは「締め切りに追われて必死だった」と答えた。翌日のテストで答えにそう書いた娘は×をもらった。
問題に「この時の作者の心境を答えよ」というものがあったので、娘さんは家に帰ってから父に「その時どんな気持ちだったの?」と訪ねると、野坂さんは「締め切りに追われて必死だった」と答えた。翌日のテストで答えにそう書いた娘は×をもらった。
ご存知の方も多いとは思うのですが、よくできた笑い話です。実は最近、このエピソードを娘さんが御本人のブログにて否定したのです。
野坂昭如の娘が、国語の試験に出た「火垂るの墓の作者の気持ち」という問題に、父親に聞いた通り「締め切りに追われて必死だった」と答えたら✖︎をつけられた
という楽しいお話は全くの事実無根。
いかにも父が言いそうなことではありますが。
一部で都市伝説のような有名なネタとなっているみたいです。
という楽しいお話は全くの事実無根。
いかにも父が言いそうなことではありますが。
一部で都市伝説のような有名なネタとなっているみたいです。
ということで、あの有名なエピソード、デマでした。
…と言いたいところですが、どうやら事はそう簡単ではない様子。
実はあのエピソード、他ならぬ野坂昭如さんが自著にて語っていることなのだそうです。『阪急沿線文学散歩』というブログによると、野坂さんの書籍『わが桎梏の碑』にて、以下のように書かれているそうです。
『火垂るの墓』は、父は戦死、母を空襲で失った十四歳の兄、四歳の妹の、終戦直前の焼跡、また落ちのびた先での明け暮れ二ヵ月半ほどを、三十枚にまとめたもの。
この作品は後に、中学校二年国語教科書にとり上げられた。後にも先にもないことだが、下の娘が、「これどう書けばいい?」
教科書を開いて、ぼくに訊ね、つまり『火垂るの墓』の抜粋、教師が、「この作品を書いた時の作者の心境を記せ」と、宿題を課した。
「それはつまり、締切りに追われて、後先の考えなく、ワーッと書いたんだけどね」
「フーン」父親がいつも締切りを守れず、電話とるなり、誰かれかまわず、まず「すみません」と誤り、果ては逐電してしまうことを、娘も心得ている>
この作品は後に、中学校二年国語教科書にとり上げられた。後にも先にもないことだが、下の娘が、「これどう書けばいい?」
教科書を開いて、ぼくに訊ね、つまり『火垂るの墓』の抜粋、教師が、「この作品を書いた時の作者の心境を記せ」と、宿題を課した。
「それはつまり、締切りに追われて、後先の考えなく、ワーッと書いたんだけどね」
「フーン」父親がいつも締切りを守れず、電話とるなり、誰かれかまわず、まず「すみません」と誤り、果ては逐電してしまうことを、娘も心得ている>
ということで、『わが桎梏の碑』、探して読んでみました。すると、たしかにこの文言は読んですぐの部分に書いてありました。(赤丸部分)
というわけで、一転このエピソード、あながち嘘とも言えなくなった、いや、本当のようです。強いて言うならば、「娘さんが×をもらった」というのは書かれていませんので、この部分は創作なのかもしれませんが、これもまた、TVで野坂さんがエピソードを披露していたという話がありますので、本当の可能性があります。
では、娘さんの言っていることが記憶違いなのか?ということになりますが、野坂さんは娘さんが2人いるそうで、ブログを書いた野坂麻央さんは長女、そして例の文章には「下の娘」と書いてあることから、このエピソードは次女のエピソードのようなのです。
当事者が言っていても本当かどうかは分からないとは…これは本当に難しい問題です。娘さんのブログを見て「あのネタ話は嘘だった」と思う人が居ても仕方がないケースだと言えます。
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