宮崎駿に続くアニメ映画監督として国内外の期待と注目を集める一人、細田守さん。
『時をかける少女』『サマーウォーズ』『バケモノの子』など、大ヒット作を次々と世に放っています。
やや有名な話ですが、その細田さんが『ハウルの動く城』の監督を務めるはずだったのをご存知でしょうか?今回は、その頓挫してしまった状況を分かり限りでご紹介します。
以下、書籍『宮崎駿全書』(著:叶精二)からの引用です。
2000年、ジブリでは二つの新企画が進行していた。
ひとつは、『魔法使いハウルと火の悪魔』の長編映画化。これは02年公開予定とされ、監督には東映アニメーション(旧東映動画)所属の若手演出家、細田守が招かれた。当時宮崎は細田の印象を「頑固で気骨ある青年。彼なら大丈夫」と評していた。脚本には細田とのコンビ作が多い吉田玲子が起用され、作画監督には『魔女の宅急便』の近藤勝也が内定していた。
(中略)
2000年12月の雑誌のインタビューに際し、細田は「ジブリかどうかはあまり関係がない。長編をやれるというので、お引き受けしました」「観客のジブリ・ブランドへのイメージを裏切るものになるかも。うまくいけば、人々の価値観を転覆させる面白いものになる」と堂々たる自信を開陳していた。
ひとつは、『魔法使いハウルと火の悪魔』の長編映画化。これは02年公開予定とされ、監督には東映アニメーション(旧東映動画)所属の若手演出家、細田守が招かれた。当時宮崎は細田の印象を「頑固で気骨ある青年。彼なら大丈夫」と評していた。脚本には細田とのコンビ作が多い吉田玲子が起用され、作画監督には『魔女の宅急便』の近藤勝也が内定していた。
(中略)
2000年12月の雑誌のインタビューに際し、細田は「ジブリかどうかはあまり関係がない。長編をやれるというので、お引き受けしました」「観客のジブリ・ブランドへのイメージを裏切るものになるかも。うまくいけば、人々の価値観を転覆させる面白いものになる」と堂々たる自信を開陳していた。
「観客のジブリ・ブランドへのイメージを裏切るものになるかも。うまくいけば、人々の価値観を転覆させる面白いものになる」こうまで言わしめるということは、相当の傑作になる予感があったようです。宮崎駿さんも太鼓判を押しているということは、この時点では不穏な空気はなかったのかもしれません。しかし…
01年12月13日、東宝は02年度以降の新作ラインナップを公開した。その中で、『猫の恩返し』を02年初夏、『ハウルの動く城』を03年春に公開すると発表された。しかし、02年春頃には、『ハウル』の企画は頓挫し、細田以下スタッフは解散している経緯の詳細は不明だが、何らかのトラブルが生じ、続行不可能になったものと推測される。
この間に何があったのでしょうか?「何らかのトラブル」とは一体何なのか?創作上の見解の相違なのか?もっと別に事情なのか?残念ながら、それは『宮崎駿全書』にも書かれていません。そして『ハウルの動く城』は、なんと同書いわく「ゼロから仕切り直す」という形で再起動することになります。つまり、細田守さん他スタッフのものは一切(シナリオも含め)引き継がれていないということでしょうか?
新たに監督となった宮崎駿さんは、公式の場でこのように仰っていたようです。
(02年)12月13日、東宝は「04年夏に宮崎の新作『ハウルの動く城』公開」と発表した。スポーツ各紙には「城は3Dで動かす」「戦火のメロドラマ」を堂々と描きたい」といった宮崎のコメントが紹介されたうえ、監督交代劇については「原作の世界観を表現するには自分でやるのが最適」と判断したと報じられた。
当ブログでは推測で理由を断定することは致しません。ので、あくまで『推測』として書きますが、「自分でやるのが最適」とは、妙に引っかかる言葉です、本当の理由を言えない故の表現だったのか、それとも、それは何らかの理由で細田さんのハウルに不満足だったということなのか?とにかく、ご存知の通り、『ハウルの動く城』は、宮崎駿さんが監督を務め、完成したのでした。
追記
2016年10月、TOHOシネマズ六本木ヒルズで行われた第29回東京国際映画祭内の特集上映「映画監督 細田守の世界 作家性の萌芽 1999-2003 (細田守監督短編集)」に来場した細田守さんは、ハウルを振り返ってこう仰っています。
当時は『ハウルの動く城』の監督をクビになって、もう映画が作れないという気持ちのままに、この40話になだれこんだんです」と告白した細田監督。「人生のチャンスがふいに訪れるとして、その瞬間にどちらかを選択しないといけない。でもその瞬間はいつ来るかわからない。通り過ぎた時に初めてチャンスを見送った気分になるんです。そういう時って、わななくとか怒るとかじゃなくて、ただボーッとしてしまう。でもそれは失敗じゃなくて、それも人生の味わい方の一つじゃないか。そんなつもりで、どれみの顔を描いた気がします」と述懐。
細田さんの口から「クビになった」という言葉が出ています。細田監督がこの件に触れ、しかも「クビ」であったことを口にしたのは初めてなのではないでしょうか?つまり…そういうことだったようです。
さらに当時の状況について、細田守さんはこう述懐しています。
僕がジブリに行って『ハウル』を作ってる時に、その当時ジブリは『千と千尋(の神隠し)』で大変だったわけですよ。だから、『ハウル』の準備のためにジブリが割けるスタッフがいなかったの。いなかったんで、自分で集めなきゃいけなかった。作画にしろ、美術にしろね。自分が監督として、スタッフを集めていかざるをえなかったわけ。「お願いします」と言って、やってもらってたんです。僕はプロデューサーではないから、「気持ち」だけでお願いしてるわけですよね。「あなたが必要なんです」と言ってお願いしているんです。「『ハウル』は総力戦だ!」と思ってるわけだからさ、「この人がいなきゃダメだ!」と思うような人に、1人1人、お願いしてきてもらっていたんです。ところが諸事情で、プロジェクト自体がドカーンとなったわけじゃない。監督って、プロジェクトが崩壊した時に、スタッフに何かを保証できる立場にないんですよね。それが崩壊した時に、その人達に対して申し訳ないというかさ。「絶対にいいものを作ります!」と言ってたのに、公約を果たせなかった。ある意味、嘘をついちゃったわけです。裏切ったわけです。もう、誰も自分を信用してくれないだろう。映画って1人じゃ作れないからさ、本当に「もう俺は終わりだ!」と思ったんだよ(笑)。
ちなみに、長編引退会見で宮崎駿さんは『ハウルの動く城』を『一番トゲのように残っているのは「ハウルの動く城」です。ゲームの世界をドラマにしようとした結果、格闘しました。スタートが間違っていたと思うが、自分が立てた企画だから仕方がない。』と仰っています。
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