2022-01-06

『千と千尋の神隠し』の千尋は「ブス」として描かれている(だから素晴らしい)


『千と千尋の神隠し』の主人公である千尋。あなたは彼女を「美少女」だと思うでしょうか?私はお世辞ながらもそのようには思えません。それはこの画像の表情にも如実に現れていると思います。

ムスッとしていてイジケていて、可愛げがない子。顔つきも他のジブリ作品の女性キャラに比べて明らかに可愛く描かれていません。特に物語の序盤では明確にそのように描かれています。そしてそれは事実「可愛くない子」という意図を持って描かれていることによるものです。宮崎監督は書籍『ロマンアルバム 千と千尋の神隠し』にて以下のように言っています。

2021-12-20

フィンランドは本当に「サンタクロースの本場」なのか?


クリスマスといえば、言うまでもなく「サンタクロース」が主役のイベントですよね。



クリスマスの代表的人物と言えるサンタクロースですが、なぜかフィンランドが「本場」と言われている記事を毎年よく見かけます。

しかしサンタクロースとは、元々は3世紀頃のトルコで司教を務めていた「聖ニコラウス」が時代と国を経て変形していき、アメリカで花開いた存在です。ですから、どこが彼の誕生の地・本場なのかを特定するのは極めて難しい存在のはずです。(私見を言うならば、強いて言えば私はアメリカが「本場」だと思います)なのに、なぜフィンランドが「本場」とされるのでしょうか?

その答えは、クリスマス、特にサンタクロースに関連する書籍にアッサリ書いてありましたので、ご紹介致します。

2021-12-18

怒涛の勢いで風景が急激に変化していく!悪い夢を見ているような1分の幻覚手描きアニメーション!


今回は、1分ほどの短編ですが、怒涛のように押し寄せるイメージに圧倒されるアニメーションを4つご紹介します。とにかくまずはご覧になってみてください。


Brain Wave from Jake Fried on Vimeo.

2021-12-04

ナウシカ役の島本須美さん、ラピュタのシータ役とトトロのサツキ役のオーディションを落ちていた!


島本須美さんといえば、数々の名作アニメのキャラクターを演じられている声優さんであり、女優さんですが、ジブリ好きにとっては、クラリス、ナウシカ、サツキとメイの母(靖子)、もののけ姫のトキなどでおなじみの方です。

そんな島本さんが『まいどなニュース』というサイトのインタビューで、非常に興味深い裏話をされておりましたので、ご紹介します。以下、インタビューの一部抜粋です。

宮崎監督の作品は、「天空の城ラピュタ」(1986年)からジブリでの制作に。島本さんは「となりのトトロ」(1988年)のお母さん役、「もののけ姫」(1997年)のトキ役で参加したが、それを最後にジブリ作品には出演していない。それでも「機会があれば、これまでとはまた全然違う役をジブリでやらせてもらいたい」という思いはずっと持ち続けているという。

そういえば島本さん、ラピュタのオーディションで落ちているそうですが…。

「(なぜか笑顔で拍手しながら)シータ役、落ちました!お母さんを演じたトトロでは、サツキ役も落ちました」

「覚えている方もいらっしゃると思いますが、ラピュタが公開される前に『ラピュタ』という名前の飲料が売り出されました。実はそのCMのナレーションを担当したのが、私と、(ナウシカの)アスベル役だった松田洋治君の2人。『きっとラピュタもまた私たちだね』と思い込んでちょっと調子に乗っていたけど…、結果は残念でした(笑)」

なんと島本さん、シータ役とサツキ役のオーディションを受け、落ちていました!もしもナウシカとシータが同じ声だったらならば……思わず妄想してしまいますし、サツキが島本さんの声だったら…かなり儚い面を見せる子だという印象になっていたような気がします。

そしてインタビュー内で触れられている「『ラピュタ』という名前の飲料」ですが、この商品を紹介した当時のCMがありましたので、(こっそりと)ご紹介致します。

2021-10-28

押井守監督「ジブリは宮さんが撮れなくなったら“おしまい”」


押井守監督がふたまん+というサイト(https://futaman.futabanet.jp)でインタビューを受け、その際にジブリの宮崎監督のことなどを語っておりましたので、ご紹介します。例によって押井監督は宮崎監督とは旧知の仲であるため、ジブリ作品に関しても辛辣なことを言うのが面白いのですが、このインタビューでもそれは発揮されています。

以下、その一部引用致します。まずはガンダムとヤマトがアニメ界に与えた影響についての話です。

 70年代の終わりに『宇宙戦艦ヤマト』が、80年代になって『機動戦士ガンダム』が大ヒットし、ブームになりました。それまで、僕らは作品を作っても取材されなかったし、スポンサーからも局からもまるで放ったらかし。つまり、世の中に構われていなかったんです。

 みんな勝手に物作りができて、脚本通りに作る監督なんか一人もいなかった。手作りで、いろいろとデタラメだったけど、その中で最良のものを作ろうとしていた。だから、あの頃のアニメ界は本当に面白かったんです。

 僕は『うる星やつら』の映画を2本(1983年、1984年)撮ってからフリーになりました。その後しばらく、鷺ノ宮(東京都中野区)にあった宮さんの事務所に居候させてもらっていたんです。宮さんが『風の谷のナウシカ』(1984年)を作った後の頃です。

 当時、宮さんとはよく話しました。一生分、話したんじゃないかな。

「あんたと私が映画を作っていられるのは全部、ヤマトとガンダムのおかげなんだよね」

 宮さんはそう言っていましたが、僕もその通りだと思います。確かに『ヤマト』と『ガンダム』がブームになったことで、以前のように好き勝手はできなくなったけど、一方で僕も映画を作れるようになった。